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少し立ち止まることで、自分が何者かが見えてくることもある

今までに自分って何者なのだろうと、ふと思ったことはありませんか?

普段はそんなこと考えてはいなくても

例えば、離婚や別居をしたり、恋人と別れた。

両親が亡くなり本当にひとりになった。

家族をサポートするために、長く勤めていた会社を辞めた。

病気と長く付き合うことになった。

そんな風に、環境や人間関係などが変わった時や

当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかったことに気づいた時に

自分の足元がぐらついたり、音を立てて崩れるような感覚に襲われ、

あれ?私って誰なんだろう?何をしたいのだろう?

自分のことがよく分からなくなってきた・・・などと

急に恐怖や不安をおぼえることがあるかもしれません。

自分のアイデンティティだと思っていたことが無くなる恐怖を味わう

私にとって、はじめての今までの人生が崩れて、足元がおぼつかなく感じたのは

40代はじめに健康診断で乳がんが見つかった時です。

子供の頃からずっと「超」がつくほど元気で

ソファに座ってゆっくりするとか、のんびり過ごすことはほぼなく

次は何をしよう?どんなチャレンジしようかな?と思いながら一日を終え

常に前へ、前へと動き回ることが自分にとって当たり前である毎日。

健康診断結果が「乳がんの疑いあり。要精密検査」となったのは

一級建築士一次試験まで残り3か月のラストスパートをかけていた矢先のことでした。


家族がお正月に海外旅行に行くのを尻目に、一日中参考書とにらめっこをしたり

混雑した通勤電車内でも勉強できるようにと分厚い問題集を

その日にやる分だけカッターで切り抜いて持ち歩いたり

睡眠・食事・仕事・勉強の時間のやりくりも、それなりに楽しんでいましたが

今思い返してみると、当時の私は自分という人間やものごとを

自分の頭の中だけで完結させがちで

自分の思い「だけ」が前へ前へと突き進んでいたのだと思います。

だからこそ、たとえ精密検査となっても

一割くらいの人しか悪性と診断されないと言われているし

それなら、自分はもちろん残り九割の良性に決まっているだろう。

検査はあくまでも「安心」を得るためのものだから、と

根拠のないことを思いながら乳房超音波検査を受けると

「癌ですね。すぐに手術先の病院を決めましょう、紹介状を書きます」

と予想を反することを医師から言われても、それでもまだ自分は大丈夫だと思い

「二次試験が終わる半年後くらいに手術っていうのはどうでしょうか・・・」などと返答すると

医師からは「何を言っているのですか。まずは治療でしょう!」と呆れられる始末。

そこでやっと事の重大さを理解すると同時に、自分の足元が崩れるような感覚を味わいました。

そして、その時なぜか小津安二郎監督の映画『小早川家の秋』の中で

中村鴈治郎さん演じる京都の造り酒屋のご隠居さんが急逝する間際に

「ああもうこれで終いか、もう終いか」と言ったワンシーンが

思い浮かび、自分と重なったんです。

「え?自分(の人生)ってもう終わり?死ぬの?」と。

いったん立ち止まることで、自分にあるものに気づく

治療の後遺症で、ライフワークでもあった三味線を弾くことができなくなったことも

虚無感というか、自分を自分たらしめていたもののが無くなる感覚を生んで

私って何?これからどうしたらいいの?と自分を「見失う」ことにもなりました。

そんな時に、たまたま兄のススメで『ボヘミアンラプソディー』を観に、映画館へ足を運び

Queenのリードボーカルであるフレディ・マーキュリーの歌声を聴き

パフォーマンスをみて、自分に立ち返ることができたんです。

確かにできなくなったこともあるけど、今、自分の身体はここにあるではないか。

今の自分にできることは無限にあるのだ、ということに気づいた瞬間でした。

マインド(意識)と身体

そして、ユヴァル・ノア・ハラリ さんと、ジョン・カバット・ジンさんの対談動画(※)をみて

たとえほんの一時であっても、立ち止まってみることも大切だということに気づきました。

渦巻く感情を感じる自分を否定も肯定もせず、そのままでいること。

今の自分を受け入れるというよりは、ただ観察してみること。

ハラリさんは対談の中で、AIと人間の違いを話していて

人間は他の動物と同じように、サイクルというものがあり

休息・消化・睡眠といった時間、つまりオンオフが必要であるということ、

いっぽうAIにはサイクルといったものは必要が無く

ずっとオンの状態が続いているということを言っていました。

そしてこんなことも言っていました。

人は何か話そうとすればするほど、会話に深みがなくなり

会話というよりはただ自分の主義主張をするだけになってしまうこともある。

あるいは、大事なことを言わないいけない、とそちらばかりに意識がいってしまい

結局何一つ大切なことは言えなかったということも起こってしまう。

会話や人生に深みを増すには、silence and boredom(沈黙や退屈さ)もありなんだと。


私には、何もない。何もできない。いや、何でもできる。

そんな風に、あっちこっちにいってしまう自分のマインド(意識)。

マインド(意識)はいつでも現在過去未来にも行けるし、この瞬間に宇宙にも行ける。

けれど、身体はそうはいかない。

つまり、こうも言えるのではないでしょうか。

常にあっちこっちへといってしまうマインドを

今ここにとどめておいてくれるのは、この自分自身の身体だということ。

そして、この身体を通して自分という人間を感じとり

生きることができるのだということ。

そういった「気づき」が、自分を知る一歩になり

自分が何者であるかを自分が決めていく力になり

自分という人間の土台を一つ一つ、つくりあげていくのではないかと思います。


このブログを読んでくださっているあなたも

ぜひちょっと立ち止まって、今ここにいる自分を感じ

静寂の中に身を浸してみる時間をもってみてはいかがでしょうか。

自分はどんなことがあっても大丈夫。

身体の奥底から発する、そんな自分の声を聞けるのではないかと思います。


<参照>

※ユヴァル・ノア・ハラリ さんとジョン・カバット・ジンさんの動画はこちら

※ユヴァル・ノア・ハラリ さん:『サピエンス全史 』などの著者。イスラエルの歴史学者。

※ジョン・カバット・ジンさん:マサチューセッツ大学マインドフルネスセンターの創設所長で。マインドフルネス瞑想の本も複数冊出版。

音声でもお聴きになれます。こちらから(Gift of Aging Podcast エピソード EP #68 「時には静寂の中に身を浸して 〜Stillness in Life〜」)。または当ウェブサイトの「ポッドキャスト」でもお聴きになれます。

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